竹内 栖鳳  /  SEIHO TAKEUCHI



◆経歴

1864年(文久4年/元治元年) 11月22日、京都市御池通油小路西入ル森ノ木町12に父・竹内政七、母・きぬの長男として誕生。本名は恒吉。家業は通称「亀政」と呼ばれる料理屋で、10歳上の姉・琴と二人姉弟として育てられる。幼き頃姉とともに、店の客だった友禅画家が絵を描くさまを目のあたりにし、感に入ったという。

1877年(明治10年) 13歳 5月、母きぬ没。

          土田英林につき、絵を習い始める。

1881年(明治14年) 17歳 秋、幸野楳嶺の私塾に入り、「棲鳳」の号を受ける

1882年(明治15年) 18歳 幸野私塾で工芸長となる

1884年(明治17年) 20歳 2月、京都府画学校の北宗画科に入学

1885年(明治18年) 21歳 3月、師・楳嶺とともに、東本願寺法主・大谷光勝と光演の北陸地方巡錫に随行する。(5月帰洛)

1886年(明治19年) 22歳 6月、祇園で催されたフェノロサの美術講演を聴き、刺激を受ける。

1887年(明治20年) 23歳 2月、京都府画学校を修了

          8月、西陣織物業の高山氏長女、奈美と結婚。亀政の筋向いに父より家を与えられ、画家として開業する

1889年(明治22年) 25歳 1月、京都府画学校の出仕となる

          2月、髙島屋意匠部に勤める(翌年4月まで)

1892年(明治25年) 28歳 4月、京都市美術工芸品展出品の≪猫児負喧≫が「鵺派」と評される

          5月、西山翠嶂、栖鳳塾に入門

1895年(明治28年) 31歳 5月、京都市美術工芸学校の教諭に就く

          上村松園、栖鳳の塾に入門

1897年(明治30年) 33歳 この頃より画塾を「竹杖会」と称する

1899年(明治32年) 35歳 12月、西村五雲、入塾

1900年(明治33年) 36歳 8月、パリ万国博覧会視察のため渡欧(翌年2月帰国)

1901年(明治34年) 37歳 4月、号を「栖鳳」に改める

1903年(明治36年) 39歳 小野竹喬、橋本関雪、石崎光瑶が入塾

1904年(明治37年) 40歳 12月、土田麦僊、入塾

1906年(明治39年) 42歳 2月、姉の琴が死去

1907年(明治40年) 43歳 10月、第一回文展の審査員となり、以後、毎回務める

1909年(明治42年) 45歳 4月、京都市立絵画専門学校開校し、専任教諭となる

          徳岡神泉、入塾

1911年(明治44年) 47歳 11月、第五回文展出品中の≪雨≫が墨汁を塗布される(墨塗事件)

1912年(明治45年/大正元年) 48歳 2月、栖鳳塾研究会が発足

            洛西嵯峨に別邸を購入、のち霞中庵を増築

1913年(大正2年) 49歳 12月、帝室技芸員となる

1915年(大正4年) 51歳 4月、横山大観からの日本美術院学術顧問就任要請を辞退

1918年(大正7年) 54歳 1月、小野竹喬、土田麦僊、村上華岳、榊原紫峰、野長瀬晩花ら、国画創作協会を結成し、顧問となる

1919年(大正8年) 55歳 春、池田遙邨、入門

             9月、帝国美術院が開設され、会員となる

1920年(大正9年) 56歳 4月、中国旅行に出る(7月に帰国)

1921年(大正10年) 57歳 4月、再び中国旅行(6月に帰国)

1924年(大正13年) 60歳 5月、京都市立絵画専門学校教授を辞任

             11月、フランス政府よりレジオン・ドヌール勲章(シュヴァリエ)授与

1925年(大正14年) 61歳 11月、勲五等に叙せられ、瑞宝章を受賞

1927年(昭和2年) 63歳 5月、初めて潮来を流行し、11月に再訪

1929年(昭和4年) 65歳 夏、御池より高台寺新邸に移る

             秋、肺炎を病み、床に伏す

1930年(昭和5年) 66歳 1月、レジオン・ドヌール勲章(オフィシエ)受賞

1931年(昭和6年) 67歳 3月、肺炎再発。療養のため神奈川湯河原へ赴き、天野屋に投宿。以後、たびたび滞在する。

1933年(昭和8年) 69歳 3月、ドイツ政府よりゲーテ名誉賞を授与

             11月、竹杖会の解散式行われる

1934年(昭和9年) 70歳 1月、天野屋に滞在し、東本願寺大寝殿障壁画を制作。

             この頃、同敷地内に住居「山桃庵」とアトリエを建造

1935年(昭和10年) 71歳 3月、栖鳳ら京都画壇の代表作家らが結成した春虹会の第一回展に出品

             6月、松田文相、帝国美術院改組を断行

1936年(昭和11年) 72歳 1月、「新帝展に対する意見」を報知新聞に発表

1937年(昭和12年) 73歳 4月、第一回文化勲章受賞

             6月、帝国芸術院改組し、会員となる

1940年(昭和15年) 76歳 5月、最後の潮来旅行

1941年(昭和16年) 77歳 4月、絵筆で国に報いる「彩管報国」を理念とした日本画家連盟が京都在住の日本画家により結成され、顧問となる

1942年(昭和17年) 78歳 1月、肺炎を発症

             6月、東上し、宮城を写生する

             8月23日、湯河原の山桃庵にて死去。

             戒名は霊山院瑞誉栖鳳居士